フロアコーティングの視点
家があっても老夫婦だけの単調で不安な住生活。
かといって、二世帯住宅を建てても、壁の向こう側で勝手気ままに生活する若夫婦にかえってストレスがたまる。
ではいっそ、すべての財産を投げ売って、超高額なケア付きマンションで悠々自適な老後生活を送るか。
これも子供や孫がまったくいなければよいが、やはり血を分けた肉親をそうもたやすく切って捨てるわけにはいかないだろう。
では、生活コストは安いが、行ったこともない海外の地に行って、充実した老後の新生活をスタートさせることが本当に可能なのだろうか。
子供や孫はおろか、古くからの友人や親戚と縁を断ち切るのと同じ感覚になりはしないだろうか。
一度行動を起こしてしまうと、これも後には戻れそうもない。
たとえ生活コストが安くとも、海外であればそうそうたやすく帰ったりはできないし、体力も続かない。
電話代も大変だ。
何かあれば身内が多額の旅費を投トして来なければならない。
こんな勝手な行動が許されるはずもなく、賛成者は天涯孤独の老夫婦か、土地持ちか、金持ちで、しかもこんな人たちなら日本でも悠々自適の「充」実した老後生活を充分に送ることができる。
そこで何もわざわざ海外にまで移住することなく、自然に恵まれた都市近郊の山村に畑がついた古い民家を購入したと仮定してみよう。
都市に家を持つ人はそれを処分してもよい。
アパート暮らしの人であれば退職十年前ぐらいから準備をする。
場所にもよるが一千万円以下でも充分に可能だ。
ただ、山村とはいっても車で三十分以内のところに、せめて市立病院以上の「医」を確保することは大切だ。
「職」は畑を耕す野良仕事となる。
たぶんこの〝職業″が一番最後まで長く続けられ、健康にもよい。
いろいろと新種を改良したりめずらしい品種を育てると、楽しくてボケているヒマがなくなる。
「充」生活の発想法たとえ「医」「職」の不安な老後生活を迎えようと、「充l生活の発想を持てば、すべての難問が解けてきそうだ。
これが「住」はおろか住宅」中心の発想だと、海外老人移住などの発想に陥りやすいじこんなことを政府レベルで推進すれば、ただでさえ貿易摩擦真っ最中の日本たたきに、「今度は日本は老人を輸出する気か」とか、「儲けるだけ儲けておいて、自分たちの親の面倒も見られないのか」とつけ加られることは必至だ。
少々本題からそれてしまったが、こうした「国際的姥捨て」感覚にまで話が発展するところが「住宅」のハード思考なのだ。
この思考方法が、子供の個室化を招き、わがまま勝手な「二世帯住宅」を生むことになる。
ではどうしたら「充」生活の発想ができるのだろうか?前項で「方針を持って未来を見つめることが大切だ」と言ったが、これもやや抽象的だ。
反対に昔を見直し、深層家族主義を考えても本吉の状況を知るのみで答えにはならない。
そこでヒントは、「充」の反対は「欠」であることだ。
あえて不足などと考えずに欠けているもの、あるいは今の住生活に欠如したものを生活に充たせばよいのである。
「ナンダあたりまえじゃないか」とダマされたように感じられるかもしれないが、答えはこれしかない。
ただ欠けているもの、欠如するものだけを考えることがコツである。
あくまでも「面積が少ない」「部屋数が少ない」「金が足りない」などといった不足するもののことを、ここでいったん全部忘れることが肝心なのだ。
「家が狭いから」「部屋数が少ないから」と言っている間は充たされた生活は得られない。
それよりも、もっともっと大切なものが欠けてはいないかと思考すると、狭くても苫さえ取りのぞけば楽になる。
「狭苦しさ」から狭くとも「狭楽しさ」に変わる。
これを同居生活に置き替えると、不安の源の「親子といえどもライフスタイルも違えば考え方も違う」ということが、「だからこそ、欠けたものを互いが充たす」という発想につながる。
これは未来の「医」「職」の生活を充たし、過去の「深層家族主義」の心をも充たす結果となる。
こんなわかりきったことが、中途半端な西洋式住宅や西洋家族学の知識でコロッと忘れ去られてしまう。
他のどこにつくるのでもない、他の誰のためにつくるのでもない。
日本人がこの日本で日本人のために住まいをつくっているのだ。
いくら西洋式住宅が堅牢で格好よくとも、西洋人が同居を奇異に感じてもここは日本、逆立ちしたってこの日本の風土と風俗と人は変わりようがない。
近代化など大きなお世話だと言いたい。
考えてみると、戦後のアメリカ式バラック方式の復興で、東京は一瞬にして西洋化してしまった感がある。
文化住宅や公団の2DK団地などがまさにそれだ。
いきなり始まった壁に仕切られた生活は人々の心を変え、親子の関係さえも変えてしまうのに充分だった。
今まで家族がフスマ越しに互いに思いやってきたことや、時間を生活の中で上手に配分して共に暮らすすべを失わせてしまった。
なるほど、壁に完全に仕切られた中の生活は、個々があまりにも自由で勝手に過ごすことができる。
ところが、皆が一様に豊かになった今日、壁にきっちり仕切られた西洋式の壁式住宅は、ますます完璧でなければならなくなった。
なぜなら、「隣人のピアノの練習音が、小さくなるだけではなく、やっている気配さえ聞こえてはならない」のだ。
この恩いや憎しみまでも封じる手立てはない。
互いがよく話をし、仲良く住むLか手はないのだ。
壁に頼ると殺人事件にまで発展することもあるからおそろしい。
今の二世帯住宅においては、さらに気質を知った身内が壁のむこうの隣人となる。
この思いを断ち切ることは他人以上にむずかしい。
むしろ不可能とも言える。
両者が他人以上に積極的に交流し、一緒に住むしかないのだ。
その時こそ「互いが欠けているものを充たし合っている」と実感できるだろう。
「充」たされる生活とは、こと同居生活に限っては生活上欠けていることを親子が互いに充たす生活だ。
親たちにあるのは時間で、欠けているのは安心だろう。
したがって、子側は親に子の養育や監督をたのむ。
親たちは出掛ける時の留守や、家事その他庭の手入れなどと結構忙しい。
反対に子側は親たちの老後不安を忘れさせることに努める。
親側も子の活力をおおいに生かして日常の不安感をなくし、老後の暮らしを楽しいものとする。
親が高額の土地や財産を持っているのも確かに充たされてはいる条件だが、これを頼りにするだけでは、かえって子側にも親側にも、「克」たされた生活はやってこない。
〝娘同居はやりやすい″はウソ前にもちょっと触れたが、俗に〝娘同居はやりやすい″といった考え方がある。
なるほど、自分の娘夫婦と同居すれば親は気がねすることが確かに少ない。
現代の結婚は家と家との結婚ではない。
「嫁に行った」「嫁がきた」などという言いまわしは改めなければならない。
娘夫婦と同居するなど、かつては婿養子以外考えられないことであった。
「娘が嫁に行って婿を連れて帰ってきた」と言うべきところだろう。
これも土地や建物次第というところで、親の側に余裕がなければ娘同居なども考えられない。
反対に息子の親も、わが方に二世帯住宅か同居住宅を建てるだけのキャパシティがなかったり、ぐずぐずしていると、たとえ長男でも嫁の実家に取られてしまうご時世だ。
これが原因で二世帯住宅を建て急ぐ親も多いのかもしれない。
ところが、〝娘同居はやりやすい〟が大変なウソであることに気がついている人は少ない。
とにかくフロアコーティングについての説明文に楽しく親しむことがフロアコーティングの知識を深められる近道だと思います。
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